心田庵、 今年も紅葉の季節です
長崎市・片淵町に、「心田庵」という名の史跡があることをご存知だろうか。その歴史は17世紀まで遡るのだが、個人の所有物として受け継がれてきたため、近隣に住む人にさえ、その存在はあまり知られていなかった。しかし昨年、昭和期からの所有者であった増田水産が、長崎市に心田庵を寄贈。その貴重な文化的遺産が、ついに一般公開されたのだ。
昨年の秋。初めての一般公開の報を聞きつけ、「絶対に行きたい!」と思っていたのに、残念ながら時間がとれず…。行った人から、「すごく良かった!」、「絶対気に入ると思う」なんて感想だけを聞かされヤキモキしていたのだが、一年越しの念願叶い、ついに初訪問!秋の一般公開を前に、長崎市の文化財課の学芸員・佐々田さんにご案内していただきました。
何兆晋さん、 いい別荘ですねえ
長崎大学経済学部前のバス停から、徒歩5分ほどの場所にある心田庵。周囲は閑静な住宅街で、「本当にこんなところに…?」という感じ。不安になりながらも進んでゆくと、「市指定史跡 心田庵」の案内表示が。ありました、ありました!「路地裏に突然現れる江戸時代」といった風で、住宅街とのギャップが、かえって趣深い雰囲気を引き立てる。門から玄関へと続く敷石は「延段(のべだん)」というそうで、リズムある石の配置が美しい。門ひとつへだてるだけで、時間の流れ方まで変わるのかしらん?しん、と静かな空間の中、日々の忙しさでざわついた心が、穏やかにほぐれてゆく感じ…。うーむ、たまりませんナ!
心田庵は今から約350年程前、何兆晋(がちょうしん)という人物によって建てられた。何(が)さん(と呼ぶ、学芸員・佐々田さん。なんだか親しみがわくので、ここでもその呼び名で!)は、1628(寛永5)年に長崎に来た住宅唐人・何高材(がこうざい)の長男で、唐小通事(とうこつうじ)だった人。貿易の際の通訳や事務をこなす唐小通事は当時、人々に尊敬される存在だったそうだ。琴をたしなみ、文化人としての側面も持っていた何さん。そんな何さんが、長崎の市街から少しだけ離れた場所に建てた別荘が、この心田庵なのだ。
何さんの友人で、長崎出身の儒学者・高玄岱(こうげんたい)が記した「心田菴記」(※本来は〝庵〟ではなく〝菴〟の字を使った)には、「何兆晋の心の田畑はとても広大で、まさに子が種をまき、孫が耕すごとく、心の宝である」。つまり、地位や名誉、財産などより「心の田畑を耕すことが最も大切である」と、心田庵の名の由来が語られている。庭園内の東屋(あずまや)からは女神大橋が見え、ビルなど無かった当時であれば、長崎の街を一望できたであろうこの場所。そんな場所に何さんは庵を持ち、文化人たちとの交流を愉しんだのだろう。
長崎市の文化を語るに 外すことのできない場所
さて、現在の心田庵は何と言っても茅葺屋根が特徴。ところが「心田菴図」をよく見ると…あれ?茅葺じゃない!実は心田庵、少しずつ改修・改築が行われ現在の姿に至ったとされる。何さんが亡くなった1686年以降、百数十年間は記録の無い空白の歴史で、1800年代に入ってから、絵や書の中に再び心田庵の名が見られるようになるそうだ。寄贈を受けて、調査が始まったばかりの心田庵。まだまだわかっていないことも多いが、少なくとも個人から個人へと受け継がれ、長崎の文化人たちのサロン的な役割を果たしてきたことは想像に難くない。
一見素朴な田舎風の建物。しかしよくよく見れば、すっと華奢で洗練された印象を与える細い柱や、趣向を凝らした天井など、素晴らしい意匠に感服させられる。かつて侘び茶の祖・村田珠光は、「藁屋に名馬を繋ぎたるがよしと也。然れば則ち、麁相(そそう)なる座敷に名物置きたるが好し」と云ったそうな。「一見粗末な、侘びたものの中に、いいもの、美しいものをしのばせるところが、わび・さびの心なのでしょうね」と佐々田さん。うっとり、日本人っていいですよねえ…。
さて、今秋の一般公開は11月15日から。真っ赤に色づく紅葉に囲まれた、風情溢れる庵を見学できる、年に一度の機会です。かつての文化人たちの心にふれるように…ふらり、訪ねてはいかがでしょう。
コメントを投稿するにはログインしてください。