「興福寺」のおはなしvol.1
訪れる前にチェックしたい!興福寺“キホン”のおはなし。
2社14寺がほぼ一列にが立ち並ぶ寺町通り。長崎の長い歴史と荘厳な雰囲気を保ち、訪れる人に当時の面影を垣間見せてくれると歴史通の観光客が多く訪れる、隠れた名所です。
この中間地点に位置するのが興福寺。長崎の寺社の中でも指折りの由緒と格を誇り、また長崎……というより日本の文化を礎を運んできたと言っても過言ではない、そんな重要やお寺なのです。興福寺のことを初見の人も知っている人も、少しかじったことがある人も、一緒に歴史をたどっていきましょう。
興福寺の創建は1620年(元和6年)。中国のお坊様・真円によって開設された、わが国初の唐寺と言われています。この頃、江戸時代初期の長崎は各国からの貿易商が集まる場所でしたが、とりわけ中国からの渡航者が多く、彼らが出身地別に建立を求めたのだとか。興福寺もそのひとつで、崇福寺・福済寺と併せて、『長崎三福寺』にも数えられています。朱色の山門により「あか寺」として市民に親しまれています。
〈朱色の山門〉
〈『航海慈雲』の扁額〉
歴代の住職には、真円の後を継いだ黙子如定や、長崎漢画の祖とも言われる3代目の逸然、現在の松尾法道住職まで、現在32代を数えています。黙子如定は、眼鏡橋の建設に尽力したことで知られています。(詳しくはこちら「眼鏡橋のおはなしvol.1」)
〈眼鏡橋そばの黙子如定像〉
「インゲン豆」の語源となった「隠元和尚」ってどんな人!?
そして、興福寺を語るには欠かせない大人物が。それは、黄檗(おうばく)宗の開祖である隠元和尚です!
隠元は、先述した黙子如定や逸然によって度々招請され、その熱心な想いに応えるべく、長崎へ渡ったのだとか。隠元の来崎を聞きつけた僧たちが、彼を慕って中国からも多く集いました。
興福寺のある長崎で修業を積み、長崎から徳の高い僧が各地に広がっていき、仏教はもちろん、さまざまな文化が伝搬していったそうです。
〈隠元和尚〉
オランダやポルトガルの欧風文化と中国、日本の文化が織り込まれた「和華蘭文化」として注目されがちな長崎ですが、それ以前に、日本の仏教文化を大きく確立したのが隠元であり、長崎の地だということを覚えておくと、長崎のまちがまた違った見え方をすると思います。そのあたりも要チェックです!
名称 | 東明山 興福寺 |
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アクセス | 【路面電車】路面電車3号系統「蛍茶屋 行き」に乗車→「市民会館」電停下車→徒歩5分 |
駐車場 | 周辺にコインパーキングあり |
お問い 合わせ | TEL:095-822-1076 メールアドレス:kofukuji@bg.mbn.or.jp 公式サイト:http://kofukuji.com/ |
備考 | 時間:9:00~17:00 |
場所 | 長崎県長崎市寺町4-32 |
興福寺の他のお話はこちら
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