「ながさき石碑めぐり」第2話
中島川沿い「ながさき石碑めぐり」
出島~眼鏡橋編
彩り豊かな歴史を歩んできた長崎では、街のあちらこちらで、多種多様な「石碑」や「記念碑」を見ることができます。
有名な眼鏡橋が架かっている「中島川」沿いにも、とてもたくさんの石碑や記念碑、跡地や石像もあるんです。
今回は、第1回で紹介した「臨港鉄道跡」からスタートして、上流に向かって辿りながら紹介していきたいと思います。
普段は見過ごしてしまいがちな「石碑」や「記念碑」ですが、あえて立ち止まって気に留めてみると、面白い発見があるかもしれませんよ。
楢林鎮山宅跡石碑
まず、出島の対岸にあるのが「楢林鎮山宅跡石碑」.
楢林鎮山(ならばやし ちんざん)は、江戸時代前期の阿蘭陀通詞であり医師でもある人物。
39歳のときに、江戸時代に長崎に置かれた通訳官のひとつである「大通詞」となっています。
また、オランダ商館医ホフマン等について医学を修め、楢林流外科を創始、「紅毛外科宗伝」などをあらわした人物でもあります。
現在の出島である「阿蘭陀商館」とも関係が深かった職業柄、ここに邸宅があったのもうなずけます。
史跡 出島和蘭商館跡石碑・バドミントン伝来之地石碑
出島は、大正11(1922)年、出島和蘭商館跡として、国指定の文化財になりました。
来年2022年には、指定からちょうど100年の節目を迎えます。
その出島のなかには、「バドミントン伝来之地石碑」が建っています。
江戸時代、鎖国下で開かれていた長崎港からは、さまざまな異国の文化が流入しました。
そのうちの一つがバドミントン。
日本に初めてバドミントンが伝来したのが、長崎であると言われています。
出島で暮らしていた人たちがバドミントンをしたのが始まりなのだとか。
明治時代の荷揚場
中島川沿いに扇形に広がる出島がみえる対岸に「明治時代の荷揚場」があります。
明治時代に利用された護岸石垣の解体調査中にみつかった遺構なのだそう。
長崎港からも近く、河川を利用した物資の運搬などが明治時代に行われていたことが分かります。
史跡 出島和蘭商館跡石碑
「明治時代の荷揚場」から、出島橋を渡ると、出島の敷地のすぐ外に「史跡 出島和蘭商館跡石碑」が建てられています。
出島の整備とともに建てられた先ほどの新しい石碑と比べると、こちらは歴史が古そうな石碑。出島橋を渡る人や車を見守っています。
長崎電話交換局之跡石碑
「史跡 出島和蘭商館跡石碑」から50mほどのところにあるのは「長崎電話交換局之跡石碑」。
長崎で電話交換業務が始められたのは明治32年。
電話交換業務をする女性が、和服に紫色の袴を着ていたことから、「紫式部」ともてはやされたそうです。
現在の繁華街からも近いこのエリア、「紫式部」ともてはやされた素敵な女性たちが闊歩していたようすが想像できますね。
土佐商会跡石碑
浜町アーケードまで歩みを進めると、「浜町アーケード」電停の向かいに、「土佐商会跡石碑」があります。
夕顔丸のモニュメントと共に、川沿いに「歴史に思いを馳せなさい」と言わんばかりのちょっとしたエリアが作られています。
岩崎弥太郎も主任を務めた「土佐商会」は、土佐藩の貿易関係の役所でした。
長崎の地で、大砲や弾薬、艦船図書などを調達する目的があったようです。
「夕顔丸」は土佐藩が、慶応3年にイギリス商人オルトから購入した船。
この船で、坂本龍馬が今後の日本の方針を示す「船中八策」を後藤象二郎に提案し、倒幕後の日本が進む道を示したとされています。
英国水夫殺害事件では後藤象次郎と英国公使パークスとの談判の場になるなど、歴史の舞台ともなった重要な船といえます。
サンアウグスティン教会跡石碑
川沿いをさらに進むと、常盤橋のたもとに建っているのが「サンアウグスティン教会跡石碑」。
サンアウグスティン教会は、ベルナルド・アヤラ神父が、アウグスチノ会本部教会として慶長17(1612)年に建てた教会でした。
慶長19(1614)年11月9日には、禁教令によって破壊されてしまいました。
「サンアウグスティン教会跡石碑」からさらに上流に進んでいくと、「眼鏡橋」が見えてきます。
この周辺には、石碑や石像がたくさんあります。
ここからは次回、ご紹介していいきますので、お楽しみに。
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