「ながさき石碑めぐり」第5話
歴史上、重要な拠点となる事が多かった長崎で活躍した人物たち
長崎は、江戸幕府の鎖国政策下でも外国との交易をゆるされていたり、歴史上とても重要な拠点となる事が多く、歴史上の重要な人物がたくさん住み、また訪れました。
そのため、縁の深い土地がたくさんあるんです。
西園寺公望仮寓跡石碑
「西園寺公望」は、第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣した後、文相、首相を歴任し、「最後の元老」として政界に大きな影響を与えた人物です。
長崎遊学の目的は、フランス語の修得。遊学は当初3年間の予定だったが、太政官よりフランス留学の辞令が出たためわずか7カ月余りで切り上げ、長崎を出発しています。
斎藤茂吉寓居の跡石碑
歌人として有名な斎藤茂吉(1882~1953)は、実は精神科医でもあり、長崎医学専門学校の教授として赴任し、約4年間長崎に住んでいました。
この場所でも、歌人の集いなどがしばしば開催されたそうです。
ケーペーツュンベリー記念碑・建施君記念碑・施福多君記念碑
諏訪神社と長崎歴史文化博物館の間の敷地にある長崎公園には、実はたくさんの石像や石碑があることはご存知でしょうか。
長崎公園入口の門から少し上ったところに、「ケーペーツュンベリー記念碑」「施福多君記念碑」「建施君記念碑」の三つの石碑が並んでいます。
“施福多”と”施”はシーボルトの漢字表記で、「施福多君記念碑」は、わが国の医学・博物学の発展に寄与したシーボルトの功績をたたえ、1879(明治12)年に建立されました。
「建施君記念碑」は、施福多君記念碑の賛同者を記した石碑です。
ケーペーツュンベリーはシーボルトより以前に渡来していた商館医で、この石碑は日本に初めて近代的な植物学をもたらしたツュンベリーの渡来200年を記念し1975(昭和50)年に建てられました。
(※ここでは、長崎公園に保管されていた管理資料に従い「ケーペーツュンベリー」の人名表記をしております。)
上野彦馬像
以前中島川沿いの石碑を紹介したなかでも登場した上野彦馬。
日本写真学の始祖とも言われ、日本における最初期の写真館「上野撮影局」を開業した人物です。
中島川沿いには「上野彦馬宅跡石碑」があり、長崎公園には立派な石像が建っています。
以前紹介した「上野彦馬宅跡石碑」「福澤先生留学址石碑」「楢林鎮山宅跡石碑」など、他にもたくさんの石碑があります。
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